びしっ 愛馬に鞭を入れる時、いつもその音に顔をしかめる。 そのように調教されているとはいえ、申し訳ない気持ちになるのだ。 たとえ、急がなければいけない状況の今であっても。 こんなに速く走らせることなど、今までに一度も無かった。 自分も、振り落とされないようにするのが精一杯だった。 それでも、舌をかみそうになりながらも、自分の足となってくれている彼に言わずにいられない。 「ごめんね、おねがい、急いで」 彼はまるで人の言葉がわかるかのように小さく鳴いて応える。 いや、実際にわかっているのだろう。 彼は自分の主の性格を重々に承知していた。 主の負担を減らすよう、できる限り速度と揺れのバランスを取りながら自分のもてる力を尽くした。 心配するなと、言っているのかもしれない。 人間が考えるよりはるかに、彼は強いのだから。 周りの景色が流れるように変わっていく。 目指すものの影が、その姿を現し始めた。 (見えた!) −彼は、人間が嫌いだった 彼は自分の親の顔も知らない。 生まれてすぐ人間に連れ去られたからだ。 人を乗せるためのさまざまな訓練をさせられた。 死んでいく仲間もいた。 人間は仲間が死ぬとまるでごみを見るかのような目で骸を見た。 そして、魔物の生息する森や砂漠などに、投げ捨てるのだ。 −彼はいつでも人間を憎んでいた すきあらば自分を痛めつける人間を殺し、逃げようと試みた。 普段は尊大で大雑把な態度の癖に、なかなか隙はなかった。 そうしているうちに、人間をのせて実際にはしらされるようになった。 無理な速度で走らされたり、魔物の盾にされることもあった。 そのどれもに彼は耐え抜き、生き残った。 人間の考えるより、はるかに彼は強くなっていた。 やがて、人間を乗せても走らないようになった。 鞭打たれても、鍛えられた躯はそんなもので値を上げなかった。 もう使えぬと判断され、殺されそうになった。 しかし、彼はその人間を返り討ちにした。 くちばしで、一撃だった。 跡形も残らぬほど顔面が吹き飛んでいた。 −彼は恐れられた 人を殺すことより、それが噂になって自分達の名前が汚れるのが、だ。 彼は閉じ込められた。 彼らは、総じてその生涯に渡る全てを記録し、中央に提出しなければならない。 不祥事を公にせねば、殺すことすらままならなかった。 人間たちは、すべて自然に処理されるまで見てみぬ振りを決め込んだのだ。 −彼は、疲れていた 何よりも、自分の存在に。 走らされることは嫌いだ。 でも、走ることは好きだったのだ。 ここから逃げ出すことは簡単だった。 けれど、彼はしなかった。 逃げ出しても結局つかまってしまうだろう。 そうなれば、今度は身の振りかまわず殺されてしまう。 人間に殺されることを、彼は望まなかった。 やがて、申し訳程度に与えられる餌も食べる振りをしてかくした。 彼の様子を気にする人間はいなかったから、彼が衰えても誰も気がつかなかった。 人に殺されるのも魔物に殺されるのもごめんだ、自分の死場は自分で選ぶ。 彼はそう考えていた。 けれど。 「こ、ここは危険です!こいつは人を殺したんですよ!?」 自分を調教していた人間の声が聞こえる。 誰かが、自分のところへ来るらしい。 彼は物憂げに首をめぐらし、一声、来るなとないた。 出来る限り元気な時の自分の声を真似て。 「ほ、ほら!あいつ今不機嫌なんです、絶対ろくなことになりませんって!!」 「けれど、厩の中には乗りたい子はいなかった、見るだけでも見ておきたいわ」 どうやら、ここに来ようとしているのは人間の女らしい。 毅然とした声から、今まで自分と関わってきた人間とは違うと判断できた。 彼は少し興味がわき、そしてまた顔を伏せた。 自分を乗り物だと思ってる人間に、合わせてやる義理はない。 扉が、開く。 光が差し込んできた。 彼には人間の暦など知識になかったが、それが久しぶりに目にするということはわかった。 そして、人間が近寄ってくる。 二つの足音。 彼は体を起こした。 「な、なんだこいつ!?」 人間の驚いた声が聞こえた。 彼の今の様子を見て驚いたに違いない。 きっと、見る影もなくやつれているだろうから。 「こ、こいつ!!人を散々脅かしやがって!!」 女が何か言うより早く、男が剣を抜き放ちきりかかってきた。 彼はくちばしを突き出した。 刺し違えてもかまわない、死に場所すら選べないなら、自分を殺すものを共に殺してやると。 彼が聞いたのは、まず甲高い金属音だった。 そして、耳障りな、やわらかいもの、硬いものを一緒くたに砕いたような音。 「…ひ」 男が、小さくうめいた。 首筋に、女の抜き放った剣が突きつけられていた。 それと同時に、彼のくちばしが女の左肩に深々と突き刺さっていた。 まるでそこだけ別世界のように、遅れて血がしぶいた。 骨は広範囲にわたって砕け散り、周囲の肉など残っていなかった。 肩が半分ほど無くなっていた。 男は、なにか言葉にならない言葉を発しながら逃げていった。 しかし、彼はそんなものなど眼に入っていなかった。 女の顔を見る。 痛みすら感じさせず、女は悲しげな微笑を浮かべていた。 動くことすら脅威である左腕を、自分の右腕で持ち上げ、彼の首を抱きしめた。 あふれるように出てくる血が、彼の半分ほど抜けかかった羽毛にしみこんでいく。 女は、焦点の合わない目を彼に向け、たった一言、かすれた声でこういった。 「ごめんね」 女の体が、崩れ落ちる。 彼は震えるようにその場にへたりこんだ。 何故、この人間はあんなことをしたのか? 何故、ごめんと謝るのか? 彼はしばらく呆然とし、そしてごめんと言ったときの女の顔を思い出す。 ゆっくりと、立ち上がる。 クァァァァァァァァァァァァ!!!!! なぜかわからない、しかし、彼は力の限り鳴いた。 二度、三度と泣き叫んだ。 そして、女の体を担ぎ上げる。 器用にくちばしではさみ、背中にのせた。 −まだ、暖かかった 彼は、この人間を死なせたくなかった。 何故か、この人間に対してだけ、そう思った。 一歩、踏み出す。 膝が、砕けた。 もはや彼に、人を乗せて歩くだけの力は残っていなかった。 がっくりと、倒れる。 彼は間髪おかず立ち上がった。 再び背中に女を乗せる。 幾分、冷たくなっていた。 彼はもう一度大きく鳴き、そして一歩踏み出した。 崩れ落ちる。 先ほどより、距離が短かった。 先ほどより、冷たくなっていた。 乗せる、歩く、崩れ落ちる。 何度も、何度も何度も何度も何度も。 動け、動け、動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!! 自分に叫んだ。 何度も。 繰り返すたびに冷たくなる体。 繰り返すたびに短くなる距離。 彼はあきらめたくなかった、たった一瞬でも、自分の意味をくれたこの人間を。 そして、力尽きる。 もはや、羽を動かす気力すら費えた。 女の肩からは、血が流れていなかった。 すでに、流れるべき血を失っていた。 クァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!! 鳴いた。 泣いた。 どこかにいるかもしれない神に、人間の神に、彼は祈った。 祈るくらいしか、出来なかった。 そして 「悔しいですか?」 声が聞こえた。 神ではない、人間の声。 今まで自分が聞いたことのない声。 かれは、水で霞んでよく見えない目を一生懸命凝らした。 人間が、そこにいた。 「悔しいですか?」 彼は、答えた。 悔しいと。 人間の問いかけがただ今の状況を指すものではないことは、何故かわかった。 だから、答えた。 悔しい。 人間に捕まった自分が悔しい。 逃げられなかった自分が悔しい。 すべてあきらめてしまった自分が悔しい。 助けられなかった自分が悔しい。 「ならば、生きなさい」 人間はそういった。 生きる。 「生きて、貴方の生まれてきた意味をみつけなさい」 彼は大きく鳴いた。 見つけた!見つけかけた!そして自分でそれをつぶしてしまった! 「まだ、終わってませんよ」 人間はそばまで歩いてきた。 彼は人間に自分の言葉が通じることを悟り、そして頼んだ。 この人間を、頼む。 「わかっています」 人間はちらと動かぬ女をみて、一瞬だけ、顔をしかめた。 そして、ゆっくりと何かを唱えた。 光があふれた。 薄く色づいた光。 さまざまな光。 それが地面から吹き上がるように出てきていた。 人間はそれを二度、三度と繰り返した。 一度目で、彼は翼をはためかせた。 二度目で、彼は足に力を取り戻した。 三度目で、彼はしっかりと立ち上がった。 女を、見る。 肩の傷は癒えていた。 いまだに動きはしない。 しかし、その体は生きているのとなんら変わらない状態だった。 人間が、再び何かを唱えだす。 先ほどのよりも、やさしい響き。 やさしい光。 何もかもを癒し、赦すかのような、淡い光。 女の体に光が集まった。 立ち上るように強くなる光。 一瞬だけ、純白の翼の生えた人間のようなものが見えた。 そして人間は女を抱え、彼の背中に乗せる。 「できますね?」 彼は鳴いた。 誇り高く。 自分の「主」を助けられぬでどうしようか。 それは自分にも向けた言葉であった。 人間が、少し微笑んだ。 彼は女がおきたら、自分に乗ってくれと頼むつもりだった。 この人間はもともとそれを探しに来ていたはずなのだから。 この役目をほかの仲間には渡したくなかった。 仲間からなんと言われようとかまわない。 主のためであるならば、この命をすらささげよう。 彼のこれまでは後悔ばかりだったが、これだけはもう一度チャンスをくれた。 それが神なのか、誰なのかはわからない。 けれど、彼は感謝した。 目の前の人間に。 そして、背中のぬくもりに。 あのときと、同じように。 「ごめんね」 主はそう謝った。 気にするな、と小さく鳴く。 主の役に立つことこそ、私の生きている意味なのだから。 主には言葉は通じない。 主を助けた、彼以外に、自分の言葉は理解されない。 けれど、 「うん、ありがとう」 言葉でなくとも通じ合えるものを、確かにあれから主と築き上げてきた。 周りにはこちらを怪訝そうに見つめる仲間もいれば、うらやましげに見つめるものもいる。 そしてごく少数ではあるが、暖かな視線で主を見るものもいた。 つながれているとはいえ、彼の体をしばるものは何もない。 轡さえ、はずされている。 けれど、決して彼は逃げない。 主と戦ういまの生活が、彼には一番充実したものだから。 休憩している暇はほとんどないだろう。 主の仲間達は、主の齎す知らせにじっとしていられる性質ではない。 あの言葉の通じる彼も、仲間のこととなると、普段の穏やかな気質はどこかへ吹き飛ぶ。 彼は再び全力で走ることになるだろう。 しかし、それも望むところだった。 それで主の役に立てるなら、それこそが最上の幸せだ。 わずかばかり与えられた休息の時間を、彼は穏やかな気持ちですごしていた。 自分の命尽きる時が、あの主の隣であることを祈りつつ。